ヘルマン・ヘッセ「シッダールタ」と水の瞑想

好きな小説はいくつかありますが、ヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」は爽やかさと深さいう点では白眉だと思います。
同じように宗教者を主人公とした小説として、フリードリヒ・ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」も力強い、しびれるフレーズにあふれていますが、「シッダールタ」はそれとはまた違った爽やかさ、透明感がある作品です。
シッダールタという名前は、史実におけるブッダの本名(ガウタマ・シッダールタ)と同じですが、この小説のシッダールタは仏陀とは別のバラモンの息子として描かれています。
小説の中で仏陀と出会い、悟りに至っていることは能力によって、わかりますが、自らを満たす上では不十分であることも同時に感じ、仏陀とは合流せずに自らの道を選びます。そして、最後に川の流れを眺める中で、悟りに至るという話です。
仏陀の教えに満足しないという、実にラディカルな話であり、これを初めて読んだときに、「ヘルマン・ヘッセ只者じゃないな」と思いました。
この川の流れを眺めることによって、悟りに至るというアイディアは水の瞑想として考えると、実に理にかなっています。
上善水の如し(じょうぜんみずのごとし)の話でも触れましたが、東洋では『老子』が水を隠れたテーマにしており、老子を読むことによって水の瞑想のアイディアを読み取ることができます。
水の瞑想としては大きく分けると、静水の瞑想と流水の瞑想があります。
静水の瞑想は、水盤の瞑想であり、西洋でも伝統的に行われていたものであり、水晶玉透視と同じ効果がある瞑想法です。
夜、ローソクくらいの明るさの中で、水盤の水を見つめていると、その水鏡となった水面にいろいろなイメージが見えてくるという瞑想です。
「老子」の47章に
戸を出でずして天下を知り、牖(よう:窓のこと)を闚(うかが)わずして、天道を見る。
という一節があります。
家から出ないで、天下を知る。窓から見ずに天道を見る。という意味ですが、これは水盤瞑想を行えば出来ることです。
従来の解釈では、たとえ話として片付けられているところですが、気功的に読むと実際の技術の話として読むことが出来るのです。
また、第4章では「道」の説明として「道は淵や湛に似ている」(クリックで原文に移動)としています。湛とは水が深く満ちている様子です。これも静水としての水を意味しています。
そして、流水としての水については、第8章の
上善水の如し、水は善く萬物を利して、争わず。
が表現しています。
また78章にも
とあり、これも万物に流れてゆく流水の意味となっています。
そして、これらの文章を気功的に、流水の瞑想として読んでみると、
自身と万物の気の交流を感じる瞑想となるのです。
それぞれの具体的な瞑想方法については、実際にお会いしてお伝えするべき内容なので、詳述しませんが、興味のある方は一度アイビー鍼灸院にお越し下さい。