自由と怒り(荘子は風の思想)

怒りという感情はなかなかやっかいな感情です。

仏教では貪瞋痴(とんじんち)という精神状態を三毒といい、人間の克服すべき煩悩の中の煩悩としています。除夜の鐘では108個の煩悩があるとしていますが、それを突き詰めて考えるとすべて貪瞋痴のどれかが原因になるということです。それぞれ貪とは貪欲なこと、瞋が怒り、痴は愚かさを表しています。

一方、東洋医学では怒りは木に属し、肝臓と深く関わる感情とされています。

木は春の季節と関係し、二十四節気の啓蟄のように土の中から虫が出てきたり、植物の芽が出てきたりするイメージがコアイメージになります。勢いよく飛び出る感じです。英語で春をspringといい、springにもバネのように勢いよく飛び出る意味や、植物の芽が芽吹くこと、水が湧き出る(泉)の意味などがあり、東洋と共通しています。

木のバネのように勢いよく飛び出る勢いが、ネガティブな感情として爆発すると、それは「怒り」となるわけです。

木の元々の性質は、伸び伸びと成長して茂ることです。樹木を見ると、枝を隅々まで伸ばし力強く成長しているのがわかります。伸び伸びと自由に自身を伸ばしていくことが木の良さなのです。ここから木の性質として自由さということが連想され、風の自由さや雲の自由さと関係していきます。

しかしながら、伸びていく世界側の条件もありますので、木は必ずしも障害なく伸びていけるわけではありません。堅い殻を破って芽を出さなければならなかったり、堅い土を押し分けてようやく日の目を見ることができる場合もあるわけです。

もちろん、中には堅い殻を破ることができずに、芽が出ないまま朽ち果ててしまうこともあるでしょう。それでも植物は、何度も挑戦して、地上に生命を溢れさせているのです。

そして、このような困難さや障害に直面する前に、自身のイメージの世界でその障害を予想しているか、していないかが怒りが起こるか起こらないかの違いに関係してきます。

最初から困難さや障害を意識して、さらにそれを打ち破っていこうと挑戦していく気持ちがあるときは怒りは生じません。

怒りが生じるのは、予想しなかったところで自分のイメージの中での進行を妨げられるときだけなのです。

だから、すべて想定内であれば怒りは生じないのです。何か嫌なことが起こっても「まあ、想定内ですね」と言える人はあまり怒っていないといえるでしょう。

自分のイメージの中の世界は、自分が自在さを持っている世界、自由な自分がいる世界です。極端な話、空想、妄想の延長であり、自分が自由に作れるイメージの世界です。

そう言った自分の中の世界(インナーワールド)と現実の世界(アウターワールド)の葛藤というのが、生きている上で起こっている現象であり、その二つの世界の調和をとるためのハンドリングを誤ると、怒りというモードに陥ってしまうのです。

そのハンドリングに必要なのは、貪瞋痴を超えた、知性の力であり、それは無意識的に価値判断の前提となっている常識というフィルターを知性の力で自由に付け替えて、モノの見方考え方が自由になるということです。自分がこうでなければならないと思っている常識から外れたことを相手からされると非常に腹が立ちますが、その常識も文化や価値観に左右され必ずしも共有されているとは限らないということを知っている力でもあります。

そして、そのような考え方を示したのが東洋思想、東洋医学の元になっている老子、荘子の思想であり、上善水の如し(じょうぜんみずのごとし)の話では老子は水の思想という話をしましたが、実は万物斉同(ばんぶつさいどう)の思想で有名な荘子は、自由に常識の枠組みを変えるという風(=五行の木)の性質を持った思想になっているのではないかと思います。

なので余談ですが、風水というのは荘子の風と老子の水から取った名称なのかもしれません。東洋思想は一つの言葉に複数の意味を込める、ダブルミーニングやトリプルミーニングがよく使われるので、裏の意味としては含まれている可能性も高いのではないかと思います。

万物斉同、万物は斉しく(ひとしく)同じ、あなたの好きな人と嫌いな人がいたとして、その間には少し好きな人や少し嫌いな人など段階があったりします。するとその真ん中くらいの段階を見ると好きと嫌いを分ける基準が曖昧になってきます。

1から10の段階があって、1と10ははっきり違うといえるけれども、1と2の差は曖昧。まあ、1と2はほとんど同じとする。次に2と3の違いを見ると、これも差は曖昧で、まあほとんど同じとする。これをつづけていくと、9と10もまあほとんど同じになります。すると1≒2、2≒3、…、9≒10なので1≒10となって、結局1も10も大差ないというような考え方です。(≒:ほとんど同じ、近似、nearly equal )

屁理屈と言われればそうかもしれませんが、人間の価値判断の定義の曖昧さを示しているわけで、そんな屁理屈でも揺らいでしまうような常識に縛られて、怒ったり、悲しんだりしているのは不自由じゃないですか?というのが荘子の思想の核心であると思います。

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