断腸の思いの腸は大腸?小腸?

断腸の思いとは、腸(はらわた)がちぎれるほどの悲しさを表す故事成語ですが、出典は『世説新語』(クリックでWikipediaに移動)の第28篇の黜免篇(チュツメン)の中に出てくる話です。

Wikipediaのリンクで中国語版ウィキソースに原文があるので見てみると、

桓公入蜀,至三峽中,部伍中有得猨子者。〈《荊州記》曰:「峽長七百里,兩岸連山,略無絕處,重巖疊障,隱天蔽日。常有高猿長嘯,屬引清遠。漁者歌曰:『巴東三峽巫峽長,猿鳴三聲淚沾裳。』」〉其母緣岸哀號,行百餘里不去,遂跳上船,至便即絕。破視其腹中,腸皆寸寸斷。公聞之,怒,命黜其人。

原文をみるとそんなに長くない本文だとわかります。上の漢文の太字が本文です。それ以外は注釈文でしょう。

簡単に訳してみると、

桓公(桓という氏名の身分の高い人)が蜀(三国志の蜀ですね)に入り、三峡(現在の三峡ダムがある辺りでしょう)に至ったときに、部伍(5人一組の小隊)の中に猨子(えんし:猿子=子ザル)を得た者がいた。

ここで注釈では『荊州記』という書物を引いて、三峡地方の山の険しさと、猿について説明しています。

その(猿の)母は(川)岸に沿って哀しみ号(悲しい声で吼えること。号泣に近い)し、百数里を行っても去らなかった。遂に船の上に跳ねて、舟に追い付いた瞬間に絶命した。その腹中を破り見ると、腸がすべてずたずたに切断していた。これを(桓公が)聞いて、怒り、その(子ザルを得た)人を黜(降格)させることを命じた。

『世説新語』の内容は後漢末から東晋の内容なので、後漢が終わる西暦220年の末から、東晋が終わる420年くらいまでの間の出来事となります。

もっと細かく言えば、ここに出てくる桓公は東晋の桓温(312年 – 373年)とされているのでそのあたりの出来事でしょうか。

母サルが子供を殺された哀しみのあまり、腸がズタズタになって死んでしまう。このようなことは実際に起こるのでしょうか?

この話を東洋医学を学んだ後に考えたときに、少し嘘くさい気がしました。

五行が揃いすぎているのです。まるで五行説を知っている者が五行理論に基づいてお話を作ったかのようです。

まず猿は十二支の申(さる)で、五行は金になります。そして、武力(刃物)という金で子ザルが殺されてしまいます。直接、殺したとは書いていませんが、状況的に子ザルを生きて得たのか、死んで得たのか?そもそもすばしっこい猿を生きて得ることは難しいと思われますので、おそらく矢で射落としたと考えられます。

そもそもなぜ子ザルを射落とそうと思ったのか?おそらく食べようとしたのだと思います。行軍中はあまり新鮮な肉が食べられないのもあるでしょうし、そもそも猿の脳みそを美食として考える文化だからです。

親猿を射れば食べる量として多いようにも思いますがしなかったのはどうしてでしょうか?肉が堅いとか、獣臭いとかそんな理由で忌避したのか、子ザルは好奇心が旺盛なので舟の近くまで寄ってきたところを射落とされたのか、この辺は当時の実生活をもとにしているような気がします。

いずれにしても五行の金は秋の悲しさか実りのうれしさか?で説明したように、五行の金は粛殺の気を特徴としますので、殺すという象意も金になります。

そして、母ザルが非常に悲しんだ、悲しみの感情も五行色体表の七情で金に配当されます。そして、絶命した母ザルのおなかを刃物(金)で割いて見ると、腸がおそらく刃物でズタズタに切られたようになっていたのでしょう。

ここで表題につながりますが、ここまで金の象意で話を作っているなら、当然、腸も金に属する大腸になるはずです。

なので、この話は東洋医学を知っている者が作った架空のお話と考えてよいのではないかと思います。現実にこのような状況で、腸が切れて死んだサルが現在でも見つかるなら話は別ですが。

悲しみは身を切られるような感情ゆえに、東洋医学では金の感情であり、その最大のものは親子の死別でしょう。親が先に亡くなるのは年齢として仕方ない部分がありますが、子供が先に亡くなってしまうのは自然の摂理に反し、昔から日本では逆縁と言って特別なものとして扱ってきました。

そのようなことが、動物である猿にもあるということ、そしてそのことに共感した桓公の怒り、母子の愛に人間もサルも差がないというメッセージ、それらはフィクションであったとしても多くの人の心を動かすものがあったのでしょう。それゆえに故事成語として現代にも伝わったのだと思います。

「断腸の思い」の故事成語は東洋医学が元ネタになっていたというのは、個人的にはなかなか興味深いところです。

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